個性を生かすとは・・・
個性を生かすということは・・・いったいどんなことを指すのでしょうか?
今「個性を伸ばすことが大切だ」と様々なところで語られているようです。
もちろん個性を生かすことは、流れに乗って自分の人生のテーマをしっかりと味わうためにとても大切なことですから、私自身も個性は生かしたほうが、人生をより楽しむためには良いことだとは、思っています。
ただ「個性を生かす」ということを、とても曖昧にとらえているために、かえって悩むことになっている人も少なくないことも事実です。
「個性を生かしたいのに・・・自分の個性がわからない。」とか「自分の個性を分かってくれる人がいなくて苦しい。」とか・・・曖昧さゆえに、個性を生かすという正解にたどり着けない!とお悩みの真面目な人もいるのです。
(ここを読んでいただいている方は、お分かりの方も多いとは思いますが、そもそも正解を探すこと自体が苦しみを生むのですが・・・。)
それはともかく、この曖昧さについて考えることで、自分の個性を肯定することが出来るようになることを目標に、今私はこちらを書いています。
まず、個性の定義ですが・・・ここでいっている個性とは、自分のテーマをより豊かに生きるためのアイテムであり、様々なものを含み統合へと進んでも(この世で生きている限り)無くならない偏りのことです。
そもそも個性には善悪はありません。長所が短所に、また短所が長所に変わる時、その個性自体が変わるわけではないということです。
もしも個性のとらえ方が変わるとしたならそれは、そのおかれている環境が変わり、その個性が必要とされる(もしくは不必要とされる)場所にいることが原因の場合と、ある程度、周囲の状態に合わせて個性のコントロールが出来るかどうか?が鍵になる場合とがあります。
「個性を生かす」ということに取り組む場合、大切なのは環境を選ぶことと、個性をある程度コントロールできるようになることです。
これらが出来るようになるために必要なのは、自分や他人に対する信頼感です。偏った自分でも大丈夫と思えること。それと同時に偏った他人もそれはそれでいいのだということを認識することが出来るようになると、自分自身に個性を出す許可がだせるようになり、それを生かす場所に行く勇気を出しやすくなります。
また、信頼関係が築けるようになることで、人間関係への不安が少なくなる為、不安からの行動が減ります。不安からの行動は視野が狭くなりやすいため、過剰になりすぎる傾向がありますから、個性をコントロールするためには不安を少なくするように心がけることはとても大切になります。
あなたの個性を生かすためにも、あなた自身の個性と他人の個性を(出来る範囲で)ゆるし、自分の世界の信頼感を上げてみてください。
心を穏やかにするために・・・
もしもあなたが、自分の心を穏やかにするために・・・
嫌なことはしない。ポジティブなものだけをみる。嫌いな人とはかかわらない。と決めているのだとしたら・・・
実は、逆効果です。
逆効果だとは言っても、これが悪いことだというわけではありません。ですから、もしも、あなたがこうするように心がけていたとしても、落ち込む必要はありません。
ここで考える必要があることは「心を穏やかにする」というのは、いったいどんな状態を指すのか?ということです。
もしも自分の周りに、嫌な人やネガティブなものがなく、嫌なことが起きないことが、心の穏やかさの絶対条件と考えてしまったとしたら、そう見えないものに触れたりそう思えない出来事に遭遇してしまうことで、心が大きく動きます。なぜなら、穏やかさを守るために、これらの出来事を「何とかして目の前から無くそう!」という意識が働く可能性が高いからです。
つまり、心を穏やかにするのが、心を大きく動かさないこととイコールなのだとしたら、全く逆の働きをするということです。
ただ、この心が動くことというのは、自分にとってマイナスなことばかりではありません。嫌なことがあるということは好きなことがある、ということでもあります。大好きなものを手に入れた達成感や感動などを味わいたいと考える人は多いと思いますが、これらの感情を支えているのはその反対のものたちなのです。
ですから、心を穏やかにするメリットデメリットを知ったうえで、本当に自分がそれを望んでいるのか?を一度考えてみることも大切です。そのうえで、心を穏やかにしたいのだとしたら・・・
自分にとっての、嫌なこと、ネガティブなこと、嫌な人をつくりだしている価値判断を探すことです。
これは、嫌なこと、ネガティブなこと、嫌な人、を許せとか受け入れろとか、いうこととは違います。
自分にとって「良いこと、嫌なこと」「ポジティブなことネガティブなこと」「好きな人、嫌な人」を分けているものは何かを知り、それを分けているのは自分でしかないと認識し、両者が本当は一つのものだと知るということです。
どちらを選んでも変わらないことを知っていると、どちらを選ぼうかと心が揺れることはありません。心が揺れないことが、心を穏やかにすることなのだとしたら、これが解決方法になります。
とはいえ、この方法は、本当にこれを望んでいるのかどうかを、自分自身によく問いかけてから使うほうが良いかもしれません。「心が揺れないこと」も「心が揺れること」も本来善悪はありません。自分にとって必要なときに、必要な分だけ使えばいいだけなのです。
振動数と思い込みの力
振動数が高いのと、思い込みの力が強いのとは、違うことです。
これは、目に見えることだけを見ていると同じように感じられる場合が多いようですが、平面の力と垂直の力というような違いがあります。
平面の力とは、2極のどちらかだけを見つづける力です。それを見つづけることを当たり前と感じ「それしかない!」と思い込める人は、良くも悪くも他人に影響を与えます。
平面の力を使い「これしかない!」と思いこむことは、価値判断の一種ですから、振動数を上げることとは、全く違うベクトルなのです。
これは、振動数を上げること=良いことをすること(ポジティブでいること)と考えてしまうとハマりやすい罠です。
もちろん、ポジティブなことを考えること、ネガティブなことを考えないようにすること自体が悪いことではありません。
しかし、ここにエネルギーを注ぐことは、振動数を上げることを妨げているということでもあるのです。
振動数を上げるということは、価値判断を外し含むということです。
これはポジティブもネガティブも、高い視点からみるとどちらもそう変わらないということを認識するということです。ポジティブなほうが良い、という思い込みを外すということです。
(振動数の上げ方に興味がある方は多いようですが、まず大切なことは、振動数を上げることが「良いこと・凄いこと」ではないと認識することです。)
垂直の力を日常生活で使うためには、振動数を下げることも必要です。振動数が上がり「どちらでもいい。」というだけでは、欲望自体が薄らいでしまいますから。
平面の思い込みの力は、自分の欲しい物を明確にし手に入れたいときに役立ちます。この力は現実的でドラマチックで重々しい力です。
ただ、この力は使えば使うほど自分の欲しくない物、見たくない物の影響力も上がってきます。
「こうなりたい。」と思い込めば思い込むほど「こうならなかったら、どうしよう。」という恐怖が大きくなるということです。この力を使いすぎることは、負荷が激しいのです。
垂直の振動数の上げ下げの力は、自分の欲望やそれが手に入らない恐怖を無効化させる力です。これは「手に入ろうと入らなかろうとそこにそれほど大きな違いはない。」ということに気付くということでもあります。
垂直の力を使うとは、この軽さを手に入れ恐怖を無効化したうえで、振動数を落とし自分のしたいこと(する必要のあること)に淡々と取り組むということです。
これは、ドラマチックなものが好きな人には、少々物足りないかもしれませんが、他人と比べる幸せには飽きてきた人、自分のテーマを味わいたい人は、使ってみてください。
全てがひっくり返る振動数
振動数が高くなってくると、全てがひっくり返る振動数に到達します。
とはいえ、体がある限り完全に覚醒などはしませんが、今までの当り前が、鏡のようにひっくり返る瞬間があるのです。
他人がいて自分がいる世界観や全てが自分という世界観では、自分の望みや行動は自分が生み出していると認識されますが、全てを含む世界を知る事が出来た時、自分の望みや行動はただただ、そうなるためのものでしかなかったことに気が付くのです。
望んでいたのではなく、望まされていた。行動していたのではなく、行動させられていた。これを知ってしまったとき自分に対しての認識がひっくり返ってしまうのです。
こんな話を聞くと、自由が無くなる気がして抵抗を覚える方も多いかもしれません。私自身も自由が好きだと、自由を求めていた時がありますから、その気持ちは痛いほどわかります・・・。当たり前ですが、自由を求めて生きることに何ら問題があるわけではありません。
ただ、自由をもとめれば求めるほど、自分の意志で何かを選べば選ぶほど、何故それを選ぶのか?何故それを求めるのか?はわからなくなっていきます。不安や恐怖からの選択が無くなれば無くなるほど、自分の選ぶものは、はっきりしてくるのに、それを選ぶ明確な理由などないと気付くのです。
ここが観えてきたとき、自分が選んだのではなく、選ばされているのかもしれないことが観えてきます。そこにはわずかな諦めと、そうするしかないことに対する喜びがあります。
これは、自分自身をきちんと使う調和への喜びなのかもしれません。
この振動数にいきつくと、ワクワクとは無縁になります。ワクワクの定義は様々ですが、テンションが上がりラッキー!というような感情ではないということです。静かに淡々とやるべきことをやるという感じです。そこに喜びはもちろんありますが、喜びと共に確信や諦めもありますので、一般的に想像されるワクワクとは少し違ったもののように思います。
もちろん、誰もがこの境地を目指す必要はありません。この境地に行きついているように感じられる人を何人か知っていますが、それらの人たちの多くは、これを目指したわけではなく、ワクワクする人をちょっとうらやましく思いながら(笑)自分のテーマを淡々と生きることで自分の世界に影響を与えているように感じます。
ここを読んでいるあなたが、今どの振動数で生きているのかは、私にはわかりませんが・・・どの振動数だろうと自分の人生を真剣に大切に生きていただきたいと思います。私も毎日それだけを考えて生きています。せっかく生まれたのだから、自分をしっかり味わいたいと思うからです。
引き寄せの法則とサイコパス
引き寄せの法則を使って幸せになろうとするあまり、一種の魔境へと転落し、サイコパスの様になってしまう人は実は少なくはありません。
魔境やサイコパスなんていうと、とても恐ろしいモノのように感じられるかもしれませんが、分かりやすく言うと「不安・恐怖」と「欲望・虚栄心」のバランスが崩れた状態ということです。
統合への流れに向かうことは、様々なものを含むため「不安・恐怖」も含まれてしまい無効化されます。
引き寄せの法則などでは、このことを自分の願いを叶えることにおいて邪魔な不安や恐怖心(心理的ブロック)を外すことを目的として使う場合も多く・・・これが、度を超してしまうとバランスを崩すことに繋がるのです。
そもそも、統合に向かうということは「不安・恐怖」も無効化していきますが、それと同時に「欲望・虚栄心」をも無効化するということなのです。
コップの水の中に何滴かの水滴を落としたら、どの水滴なのかも、どこからがコップの水なのかも区別がつかないように・・・
自分の中の「不安・恐怖」「欲望・虚栄心」などを含む過程である、統合へと進むのであれば「不安・恐怖」というブレーキだけが無効化され、「欲望・虚栄心」というアクセルだけが残されるのは、本来ありえないのです。
錬金術とは、振動数の上げ下げを使い人生をより自分らしく味わうためのものですが、統合へと進むにつれて、他人と自分がいる状態のエゴとしての「自分」の欲望は薄らいでいく傾向にあります。
これは、欲望を持つのが悪いわけではなく、単に様々なものを含んでいくと「自分」と「他人」の境界線があいまいになるために「自分だけ」の欲望というよりも、自分とその周り「様々なものを含んだ自分」の欲望へと移り変わっていくということです。
また、自分の願いが叶うことと叶わないことの境界線もあいまいになるため、願いが叶わないかもしれない・・・という恐怖や、何が何でも叶えたい!という執着も少なくなってしまうということでもあります。
エゴとしての「自分」の欲望があるのに、それに伴う不安や恐怖だけを切り捨てようとすることは、分離に向かうことです。
分離に向かうことも、欲望があることも、悪いことではありませんが、統合へと進んだつもりで分離へと向かってしまう場合、バランスが崩れやすく苦しさを覚える人が多いということです。
個人的な欲望を持つことは、決して悪いことではありません。ただ、それに伴う不安や恐れを嫌うあまり切り捨てようとしても、それはできないのです。なぜなら、その欲望と不安はコインの表裏の様に繋がっているものだからです。
精神の錬金術が目指すもの
精神の錬金術が目指すものとは何か?
私がお伝えしている、ヘルメスの7つの原理という精神の錬金術が目指しているものとは、自分の人生において出来うる経験や体験をしっかりと味わう。ということです。これはもちろん、そうしなければならない、ということではありませんが、そうなるようにプログラミングされているのです。
これは、自分のテーマを外れた時、流れに逆らったとき、嫌な気分になるような設定がなされているように感じるところからも、おわかりの方も多いかもしれません。嫌な気分とは、悪い物ではなく、これらのことを認識しやすくなるための、仕組みのひとつではないかということです。
これらを考えながら生きる必要があるかどうか?については、私は答えをもちませんが、これらを意識して生きるほうが、よりスムーズに自分らしい経験を味わうことはできるようになるということだけは、お伝えすることが出来ます。
精神の錬金術師としてこの世界を生きていくと、自分の持ち物に関する感覚はどんどん薄らいでいきます。自分の欲しいモノ、自分の感情、自分の持ち物、自分の考え・・・などが本当は、エゴとしての自分のモノではなく、それらをもとに様々な体験をするための「設定」でしかないことに気付いてしまうからです。
ここに気付いて生きている人のことを、多くの人は覚醒者(悟りが開いている)と呼ぶのです。この境地にいきついた場合、喜びや幸せ、自由や自分の定義も大きく変わりますから、一般的に語られる「引き寄せの法則」などが目指す「幸せ」とは、同じ話をしているようでもまったく違った話をしている可能性が高いのです。とはいえ、誰もがその境地を目指す必要は(当たり前ですが)ありません。
しかし、そもそもの設定がありますから錬金術の仕組みを知ることは「自分らしく生きたい人」や「流れに乗って生きたい人」には、現実的なことにおいても役立ちます。この場合は錬金術の使い方に少し特徴があり、振動数を上げるだけではなく下げることで自分の世界に影響を与えることを意識する必要があります。
また、精神の錬金術師としてこの世を生きていきたいと考えている(私のような)少々変わり者なテーマをお持ちの方の場合は、振動数を上げる方向(価値判断を外す・統合)へと進むうちに、様々な定義が変わってくることを感じることと思います。
どちらにせよ、自分の人生を「自分らしく流れに乗って生きたい」のならば、この錬金術は知っておいて損はありません。
悪口を言う人は振動数が低いのか?
悪口を言う人は振動数が低いのか?というお問い合わせを良くいただくので、それについて書いてみます。
先ず結論から言うと、悪口を言う人は振動数は低いです。
ただし、だからダメだということではありません。振動数の高い低いは、何度もお話しするように、良い悪いではありませんから・・・。
悪口を言う人が振動数が低いというのは、道徳的なお話ではなく「悪口を言うためには価値判断が必要になる。」という理由からです。
悪口とは、何かと何かを比べた場合、どちらかが悪い(価値がない)という判断のもと、自分の主張を述べるということです。価値判断は、悪い物ではありませんが、そこからは分離が生まれますから、振動数は下がります。因みに何かと何かを比べて、どちらかが良いとすることも、価値判断するという点では同じです。(こちらは語られることが少ないのですが・・・)
悪く言いたくなる状態もそれに比べて良いと思っている状態も、実は同じ線上の極でしかないと気付くことが、価値判断を無効化し含むことであり、統合に進むということなのです。振動数が高いということはそれだけ統合が進むということですから、価値判断のしようがないため、悪口の言いようもないのです。
ただし、振動数が高い状態でも一見悪口に感じるような発言が出る場合もあります。その場合とは「悪口を使っている場合」と「好き嫌いを言っている場合」です。
「悪口を使う」というのは、セッションの仕事などで相手の振動数を上げなければならない場合に、相手に「悪口を言っては駄目だ!」という価値判断がありすぎたとき、ショック療法的に使うということです。(もしも使う場合は、慎重に使う必要があります。)
また「好き嫌いを言う」とは、価値判断ではなく単なる好みの話です。誰かがピーマンを嫌いでも、ピーマンの価値は変わりません。また、価値があるからピーマンを好きになるわけでもありません。好みとは、価値を超えたものなのです。この好みと価値判断が、混同された場合「嫌い=ダメ(価値がない)」となりやすく、単なる好みの話が価値判断の話(悪口)に聞こえてしまう場合があるのです。
悪口を言うためには価値判断が必要で、価値判断が多いということは分離しやすい分、振動数は低いということになります。
しかし、悪口を言うというのも、その人の価値観の主張でしかなく、その人のこだわりや思い入れの表現でしかないですから、悪口自体が悪いというわけではありません。実は・・・悪口をどう扱うか?も単なる好みの問題なのです。